草々草子

全略出来ればどんなによかったか。

hamletにて(弱き者、汝の名はメンヘラなり)

hamlet→小さな村,村落,集落.⇒COMMUNITY【類語】

ということで、この場所が心地が良くて仕方がない私が適当なことを言いますが。先に言っておきます、私は弱者でもメンヘラというものでもありません。私は病人にすらなれない程度の強さを持って生まれてしまった中途半端にズレた人間ですし、それ故に生じる誤解については先ず、私がタイトルにて前述した云々。それは誰への煽りでも中傷でもなくただの3秒で考え捻くれ捩じった大見出しである事を明らかにしておきましょう。そして私はシェイクスピアの作を一切読みも観劇もしたことはありません故、その辺りもどうか頭に置いて頂ければ。

さて、本題に入りますが、人々が自らの弱さを切り売りし、それによってコンテンツを創作し、また自らをコンテンツとして昇華しようとする生粋の被消費者精神を持った方々が最近増えているように思えます。果たしてそれは強さや感性といったものと違い、人間が生まれ持ったものである弱さに直接訴えかけるものであるが故に多くの人の心に楽に響くのでしょう。しかしこれだけ人間によく響く題材であるにも関わらず何故、弱さを軸に置いたコンテンツは過去流行しなかったのか。それはとても簡単であり、弱さは常に社会において長生きせず、世に出る前に肝心の筆者の心が強くなるか、折れるかの二択に迫られてしまうからに他なりません。日の目は弱さを嫌います。

しかしながら今の時代はこのように金が無くとも、説得力など皆無だとしても、こうして文字を書きそれを発信することが出来ます。弱さをそのまま相手に発信することが出来る時代になりました。それ自体の是非を問うことは私の立場からは出来ません。ただ事実として、先に述べたように弱さは長生きしない事が前提なのです。ものを書くという行為は、私のような冗談屋は違うにしろ、基本的に大なり小なり社会性を帯びています。そして弱さは社会に攻撃されるものであるという事は、俗にメンヘラなどと診断、呼称されている人々からすれば眠っている間ですら頭から離れない事実。故に弱さというコンテンツは攻撃される事が前提であり、弱さゆえに崩壊する事すら前提になってしまうものなのです。

私は攻撃する立場をとっている訳ではありませんが、しかしものを書いた以上無差別級の土俵に上がってしまったも同然であり、弱さを提げて登場したならばいい的であるのは容易に想像出来るでしょう。世の中には花の茎を悪意をもってへし折り、意図的に虫を踏み潰す人間がいることもお忘れなく、そしてこれは私一個人の感情で申し訳ありませんが、筆は折るものでなく置くものだ。読者を泣かせるならば最初から書くんじゃねえ。以上。

豚に真珠婦人

いつの話であったろうか、高校時代の私がお金を持っている時であるから、正月からそう遠くない時期であったと記憶している。何より、大勢で笑った息の白かったのを覚えている。私は人間の死と色恋云々を除いて基本的に何事にも執着を持たないが、それは私の貞操に対してもそうであった。ある日に男子生徒のみにて編成された高校のクラスメイトが私にこう言うのである。

「出会い系って本当に出会えるんかな?」

と。私は知らん存ぜぬと言い通しはしたが、彼の願望は切実なようであったし、正直私も暇であった。それなら私が人柱となりお前に何かしら始めるにしろやめるにしろきっかけにしてくれ、と言って私は出会い系サイトを始めるに至ったわけである。

すると来るわ来るわ掛かる声の数々、副収入としては十分割りに合うようで、相手を選ぶに時間はかからなかった。それでいてホテル代金別2万円という意味を指す呪文である「ホ別2」という言葉も初めて知った。そこでかろうじて自由恋愛を目的としていそうな女性を探させ、友人が選んだその人とのやり取りが始まった。

20代と書かれてはいたが、やり取りにおいて私が高校時代の頃には既に死語に片足を突っ込んでいる文体、それもハートマークが大量に添えられている事を見るに、きっと30代は裕に越していたとみて良いと私は思った。友人の女性を選ぶ尺度に多少の心配を持ちつつも、どこがいいのかと聞いてみるば写真に一目ぼれしたと言っていたのをよく覚えている。出会い系サイトにおいて写真の信用度がいかほどであるか、私でも知っているところではあったが、何分理科の実験程度の心持で挑んだ事柄である。私も別にいいやと会う約束を取り付けたのであった。

当日、友人とはメッセージでやり取りを行いつつ、どんな人物が来るかは遠巻きに眺めているつもりであった。女性からの「どんな服を着ているか」という質問に自分が来ているパーカーの中身のTシャツの色を答え、待てば、まさか自らの後ろから声が掛かったのである。

私は知りもしない他者をあまり愚弄したくない故に、全て事実のみを客観的に書くが、目測に身長はヒールの分を除き150と少し、体重は70から80kg程度。顔に関しては主観が込み合う故に致し方無いが、「かの毒舌なデラックスタレントから化粧を抜き取って2発殴った程度の顔」と私は友人との話において形容した。声はたばこにより掠れていた、蚊の鳴くような高い音が声とは別に息をする度に出ていた。そして、エンカウントしたその、女性である事を判断し辛い程度の人間に腕を後ろから押さえられたのである。痛みこそ感じなかったが、鞄の紐まで絡まった80kgの重りを振り払う力は私には起こらなかった。それに、そもそもが自業自得であった。

最寄りのホテルに引きずられていった。終始私はぽかんとしていた。あまりに呆気なく事が進んだ事に加え、「初めてなんでしょ、動かなくていいから」と避妊具を付けられ無理矢理に張り型扱いをされた挙句一切達さずに金を取られた。書いていて陳腐な悲劇のように見えてしまうが、正直心の中では笑い転げていた。

ホテルを出て別れた瞬間実際に笑い転げてみた。友人に電話し、「悪い、今日は奢れ」とファミレスで二人また笑った。事の顛末は以上である。

最後に一言を言わせてもらえれば、今回の元作品「真珠婦人」は名作である。是非読んで頂きたい。お相手は何某、名前のない大馬鹿者がお送りした。

憂き雲

タイトルを憂き国と迷い、書き出しを皆さんが知っている「長いトンネルを抜けると」と書き出そうかとも思いましたが、タイトルとは一番最初に目に飛び込んでくる言わば文字書きの顔。さらに言えば今は選挙が云々の真っ只中、「憂き国」などと書き込んだ暁には国家総出で監視された挙句、危険思想の持主として拷問死する未来が待っていることでしょう。

もちろん私はそれでも全く構わないのですが、私は思想的には国どころか「憂き世」派ですし(200年前に使い古されたネタですが)、小林多喜二は先週の冗談で終わってしまった故、旬ではないと思いこちらで筆を執らせていただきます。私には名前こそありませんが、「くたばってしまえ」からくる浮雲の作者、二葉亭四迷のネーミングにはすこし心にキュン、なんて来るものがありますね。そんな面白い洒落た名前にでもしてみたいものです。嘘。

そんな夏の暑さに心憂き憂きな私ですが、最近は面倒ごとも多く、頭の花畑も風は死に空曇りゲリラ豪雨で根は腐り...と、これも冗談です。綺麗な花畑を想像されていた素敵な皆さまとは違い、私の頭の花畑は元より食虫植物が不気味に踊る人外魔境。何を隠そう私が初めて育てた植物がハエトリソウであり、全ての葉を面白がって閉ざしたところその日から順調に枯れていきました。

私が不可触民兼、頭の中も生命維持的な意味合いにてアンタッチャブルであると判明したところで、近況を。今通っているあまり程度の高くない、大学校の試験日が迫り、その中でもあまり頭の優れていない私は冷や汗を拭うこともなく必死に死相を隠しヘラヘラと笑う毎日。そんな人間は死んだ方がいいと言われる方もいらっしゃるかも分かりませんが、そこは私も人の子誰の子親の顔どこ。くたばって終いという訳にも立ちいかず、目の前からゆっくりとやってくる死神に嫌われぬよう笑顔で手を振るしか出来ない意気地なしなのです。

トンネルを抜けずにぬくぬくと、穴倉に籠って寝ていられるならどんなに良いでしょう。ああやはり、着地点的には憂き国がベストだったのでしょうか、まあいいでしょう。正直どちらも読んでいないし、結末は知りません。知らぬ終わりを語るは阿呆の仕事、故に予言します。ロクなことにはなりゃしねえ。では。

伽哩工船

おい地獄さ行ぐんだで!と呼ばれず飛び出ず特に豪勢な効果音をも伴にせず、私が文字を書いています。何某、名前の無い普通の人間です。

さて私がここ2か月ほど、非正規労働に勤しんでいた事をご存知の方はいらっしゃらないと思います。私の普段の言葉をそこまで熱心に読んでいる方がいるとすれば、是非その不法投棄物の観察にさえ注げるほどの有り余る暇と労力、並外れた集中力を自らの成功のためにお使いください。ノーベル賞を約束します。ついでに記念品のダイナマイトで吹っ飛ばしてくれねえかなあ。

私の中でノーベル賞が爆薬配布イベントだと思われている事を世間の皆様に「無知」という一言で片づけて頂きながら、本題へ。先月私は友人に「俺が入ったカレー屋のバイトに来てくれないか、オープンから日も浅く人が足りないんだ」との話を受けまして、他2人連れ発ってとりあえず面接へ。即採用が決まりました。

その後それなりに働いていましたが、つい先日。簡潔に、一言で、さっぱりと言えばクビを切られました。どうやら仲間内4人の中で他2人が「使えない」という印象であったらしく、「その場のノリと勢いで全員クビだと言ってしまった」らしいです。中々素晴らしい神経をしていると思います。いや、終電に間に合うよう上がる時間を調整して下さいと言えば「やる気がないなら帰れ」と、会話のドッチボール、幾重にも曲解と深読みを重ねた頭脳戦を雇用主と繰り広げる毎日は実際消耗することこの上なかった故に有り難いと言えば有り難い事ですが。

中身を端折っている感は否めませんが、特定の後営業妨害で訴えられることは避けたい故に中身の俗に真っ黒な雇用環境については口を噤んでおきます。嘘です、眠気が10割です。

未だ5月分の給料すら出ていませんが、小麦粉を水に溶いて塩を振ったものを焼いて食べる生活はいつまで続くのでしょうか。貧乏人は蟹を諦め蒲鉾で代用をしますが、何故私はカレーの代用を通り越してナンもどきで胃の腑を満たさねばならないのでしょうか。

そう思えば何も私のバイト先に限らず、この世全てが蟹工船ですね。だって毎日人が死にます。よい地獄を。

あの素晴らしい哀をもう一度

何某はさよなら惨憺二度来ぬ始末...かと思いきや、思い立ったが仏滅。今日は呼ばれてもいないのにアンコールに馳せ参じた次第。

と言っても書く話題にも持ち合わせが無く、あったとして140字の箱庭に納めようと四苦八苦した挙げ句、ただでさえ内容の無い滓を圧縮した嫌がらせのような文字列をタイムラインにどんぶらこと流して日は暮れていき、やい悪い鬼め我こそは日本一の桃太郎だ、悪さをはたらくお前さんを退治してやろういざ尋常に勝負と正義に殺される期待も叶わず何日が経ったでしょうか。それに考えてみれば、いざブログを終わらせると言っても「俺たちの戦いはまだまだこれからだ!」と気持ちよく終わらせるには私の手記にはどうにもこうにも爽やかさが足りない。枯渇資源です。だったらいっそこれからねちねちと続け、皆さんの貴重な時間を溝に捨てさせるような悪行をしていればきっとヒーローがやってきて素敵な必殺技で私を文字通り完膚無きまでに殺してくれるだろうと思い、既に折れて使い物にならなくなった筆を執り駄文を書きなぐることにしました。

と、今日はその宣言だけ留めておきましょう。心と心が今はもう通わない?いや、始めからきっと誰からも理解されず、誰も理解していないのです。故に、あの素晴らしい哀をもう一度。

(Of)all days 沈丁花の空費

今週のお題「好きな街」

らしいです。また恥じることもなく全面的に提供されたお題を使って適当に。

といっても、私には語るべき過去がありません。いや敢えてお話しすれば皆さんの抱腹絶倒が目に浮かぶ...とまでは言い過ぎましたが、少しクスリと来る程度の下手な与太話なら沢山持ち合わせがあります。しかし、私は未来に向けて一歩一歩を進む度に薔薇色の花畑が枯野に変わっていく、つまり言ってしまえば黒歴史生産機のような生き方をしている故に、書いている間に顔も茹で蛸が真っ青になるくらい真っ赤に染まり(とてもややこしくてこの表現は気に入りました)、体温は40度を軽々と飛び越え、排熱機能に限界のある哺乳類、人間である私はそのまま自らの水分により無味の煮物になってしまうことでしょう。

故に、私が死なずに「街」というスケールの大きい過去の話をすることは出来ないはずでした。しかし、唯一私にも語れる街があります。そこは夢の中の街、脳内にこぢんまりと存在する小さな名前もない商店街。いつの日からかたまに夢の中に現れては私の頭に爽やかな風を吹き込みどこかへ消えていく、そんな街です。おっと、書いていて鳥肌が立ってきました。胡散臭さが売りの私がこんなメルヘンでファンタジーな雰囲気の文字を書いていいのか、その辺りは皆様にお任せします。耐えられなければ通報でもお願いします。

話の腰を折りましたが、座って話すのがちょうど良くらいの冗談です。どうぞ貴方も腰を折り曲げお座りになって、でなければ寝ながらでもいい。さて、その商店街ですが、誰もいません。シャッターは降りていませんが、店に入ろうと思うことはありません。ただ一人で、「活気があった場所から人間だけを全て抜き取った」ような雰囲気をどうしてか居心地が良いと感じながら歩き進めて、出口に立ちます。そこで「私はきっとどこかに恋人を置いてきてしまった」と思うのですが、恋人の顔も名前も思い浮かばず途方に暮れて、いつも目が覚めます。人によっては悪夢に映るやも知れませんが、私にはこの一人の時間がたまらなく気持ちが良い。と、ただそれだけの話でした。

そうですね、もしこの春にまた行けるとするのなら、花屋に一つ沈丁花の鉢植えが欲しい。普段外に出ない私に季節を感じさせたら、花言葉の通りに私を囚え離さずに囲っておいて欲しい。月を恋しく思うこともなく、ただ甘い香りに酔って寝ていたい。空想の檻に一人来る日も来る日も空費する時間を、どうか。

綺麗に纏めてしまいました、では一つ。今回タイトル使った三丁目の夕日ですが、大嫌いです。あの「泣かなければ負け」な雰囲気に包まれいたたまれず、上映終了後席を立つ際にコーラを目尻に塗った敗北感。故に今回はタイトル以外にリスペクトしていません。覚えていないし。これでいい感じに泥が塗れましたか。では以上です。

そして全てを題無しに

さて、このブログは元より徒然に、皆様を道連れに、今の世において一番と言っていいほど貴重な時間を無為に帰すべく始めた非生産的活動です。恥も外聞もありません、「更新が疲れた」と大嘘をついては不定期宣言をするという冗談も適当に使います。そこで「冗談じゃない」と帰ってくれば漫才として成立もするのでしょうが、この文字遊びにそこまで本気になっている人間なんて一人もいません。何より、始めに言いました。「笑いなし涙なし」と。

さて、名前も無いのにレッテルばかり増え、今まさに嘘吐きの一つが追加され、得体の知れ無さよりもろくでもなさの方が目立つ私でありますが今回お話しするのは嘘について。...私の目線を皆様に植え付けるのは申し訳ないところではありますが、嘘は美しい。はっきり言って人間の持つ最高級の美徳だと思います。人が人を騙す時には、その嘘がいくら優しかろうと吐く側の悪意と受け取る側の感謝が共存し、関係に矛盾が生まれます。そしてその状態が続く限り、無償にして神愛に近い何かが彼らの間には存在し続けることになる、これはとても美しい。

そして「お前は先ほど自分のことを嘘吐きと言ったが、嘘が美しいという考え、それはナルシズムになるのではないか、さては死んだ方がいいのではないか?」と勘違い、誤解をなさる方がいるやも知れませんが、安心して下さい。嘘は美徳ですが、嘘吐きは人間において最下級の人種です。嘘吐きという肩書きがこびりついている時点で、その嘘は既に相手に認識されているということ、つまり先述したその美しい関係は、既に霧消しているのです。よって私が美しいと思う嘘とは「未だ嘘として認識されていない嘘」であり、「これからも認識されることのない嘘」であることが条件となります。果たしてそれを嘘と呼ぶべきか?私はその嘘こそが本来嘘として名付けられた物であると考えたい、世に露出した汚い嘘吐きが並べる御託には別の名を付けるべきであると。名付けて「クソ」なんてどうでしょうか、互換も似通っていて言葉として違和感なく浸透に時間もかからず、汚いイメージをそのままに残すことが可能です。

と言うわけでクソ吐き、もといクソ付きの文字遊びは、懲りることなくこれからも続きます。話は未だ途中ではありますが、もとより正しい答えなど存在しません。しかし皆様の嘘が綺麗に嘘であり、また皆様が誰にも呼ばれることもなく「嘘憑き」でありますように祈ります。

題無しに台無しどころか解無くたたむ話も惜しいですが、その辺りは名こそ欲しけれということで、ご容赦を。では。

追伸 「死んだ方がいいのではないか?」について。大正解です、満点をどうぞ。