草々草子

全略出来ればどんなによかったか。

そして全てを題無しに

さて、このブログは元より徒然に、皆様を道連れに、今の世において一番と言っていいほど貴重な時間を無為に帰すべく始めた非生産的活動です。恥も外聞もありません、「更新が疲れた」と大嘘をついては不定期宣言をするという冗談も適当に使います。そこで「冗談じゃない」と帰ってくれば漫才として成立もするのでしょうが、この文字遊びにそこまで本気になっている人間なんて一人もいません。何より、始めに言いました。「笑いなし涙なし」と。

さて、名前も無いのにレッテルばかり増え、今まさに嘘吐きの一つが追加され、得体の知れ無さよりもろくでもなさの方が目立つ私でありますが今回お話しするのは嘘について。...私の目線を皆様に植え付けるのは申し訳ないところではありますが、嘘は美しい。はっきり言って人間の持つ最高級の美徳だと思います。人が人を騙す時には、その嘘がいくら優しかろうと吐く側の悪意と受け取る側の感謝が共存し、関係に矛盾が生まれます。そしてその状態が続く限り、無償にして神愛に近い何かが彼らの間には存在し続けることになる、これはとても美しい。

そして「お前は先ほど自分のことを嘘吐きと言ったが、嘘が美しいという考え、それはナルシズムになるのではないか、さては死んだ方がいいのではないか?」と勘違い、誤解をなさる方がいるやも知れませんが、安心して下さい。嘘は美徳ですが、嘘吐きは人間において最下級の人種です。嘘吐きという肩書きがこびりついている時点で、その嘘は既に相手に認識されているということ、つまり先述したその美しい関係は、既に霧消しているのです。よって私が美しいと思う嘘とは「未だ嘘として認識されていない嘘」であり、「これからも認識されることのない嘘」であることが条件となります。果たしてそれを嘘と呼ぶべきか?私はその嘘こそが本来嘘として名付けられた物であると考えたい、世に露出した汚い嘘吐きが並べる御託には別の名を付けるべきであると。名付けて「クソ」なんてどうでしょうか、互換も似通っていて言葉として違和感なく浸透に時間もかからず、汚いイメージをそのままに残すことが可能です。

と言うわけでクソ吐き、もといクソ付きの文字遊びは、懲りることなくこれからも続きます。話は未だ途中ではありますが、もとより正しい答えなど存在しません。しかし皆様の嘘が綺麗に嘘であり、また皆様が誰にも呼ばれることもなく「嘘憑き」でありますように祈ります。

題無しに台無しどころか解無くたたむ話も惜しいですが、その辺りは名こそ欲しけれということで、ご容赦を。では。

追伸 「死んだ方がいいのではないか?」について。大正解です、満点をどうぞ。