草々草子

全略出来ればどんなによかったか。

吾輩はエゴである

いつか初めての言葉遊びに使ったような気がしますね。それではおよそ皆さんのご想像のつきます通り「名前はまだ無い」と始めましょう。

さてにゃあにゃあと鳴けば人が寄ってきます猫とは違いまして、私がどれだけ大きな声で叫ぼうと見向きし通報はすれど自ら近くに来るような人間はおりません。実は先日よりこうして冗談の切り売りをする隙を伺ってこそいたのですが、何分、前回はどの面を提げどこから説教を垂れているのか自分でも良く分からぬような一人芝居をしてしまった故に、赤面も赤面。今時そんな下品な赤は売女にだって出せまいと翌日の私に太鼓判を貰い、風の噂にその酷い台詞回しと演技、それに内容から近所ではド健常大根と詰られていたと聞きます。流石に嘘です。

そんな自分で完食した空の食器に「死ね」と言われていると錯覚するような日常を送る私の頭はさながら荀彧といったところでしょうか。しかし今日のところは頭を絞りに絞りついに志高く「かくか」と思い立ち筆を持てば、ひょいと張飛が顔を覗かせました。頼むからそこの猫と一緒に酒に溺れて死んでいてはいくれないか、と宥め賺して何とか筆を歩かせ歩かせ、やけに重たいのを不思議に思い「今日のお前は何だ」と聞けば「俺は筆武将である、重いは当たり前よ。先日貴様の着せた思いの槍甲冑、忘れたとは言わせぬぞ」と返される始末。畜生め。

元より名折れ無く、折る筆既に私より強く、馬鹿も休み休みが良い。昨日の私は全く私にどうしろと言うのか。角にも兎にもまた書くにも、斯くまでに頭掻き出るのは「ぎゃあ」「ぎゃあ」ばかり。ここまで読んだ方はいつにも増して私の言葉の乱調、散文と言えと散らかり方甚だし、ついに気でも狂いおったかと察しの事でありましょうが、しかし私の精神は依然安らか明鏡止水、魑魅魍魎の血の池は今も「しいん」と骨残らず私という存在を溶かし切り、一度売り出せばお釈迦様も即断で物件をお決めなさる程度に定まっています。では何故こんなにも「字書き」という文化そのものに中指を立てたかのような文章になっているかと言えば別に理由はなく。まあきっと、暫く振り故に手綱の引き方を忘れた、とか。誰も見ていないと思って大暴れをしている、とか。そんなところでどうでしょうか。

甕の水は抜いておいたので、猫は酔えども生きています。おっと忘れていた、張飛の首がない。あーあ。と、激情を喪いついでに劇場も取り壊しましょう。自由に、また自由に冗談を。なあ猫よ。